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【PLEDIS】プルディ王朝 実録 vol.3

PLEDIS entertainment

こんにちは。スマホが壊れたおかげで、かき集めていたネタと資料をほぼ失ったTime Holicです。

今回もプレディスの歴史にまつわる物語の第3弾として、続きを翻訳 (絶賛意訳中) してお届けします。

プルディ王朝 実録 vol.1
・そのすべての始まり
プルディ王朝 実録 vol.2
・プレディスキャスティング伝説
プルディ王朝 実録 vol.3 (←現在ココ)
・プレディス大激動と混乱の時期
プルディ王朝 実録 vol.4
・過度期を迎えるプレディスファミリー
プルディ王朝 実録 vol.5
・プレディスがフレディス
プルディ王朝 実録 vol.6
・どんなドラマ
プルディ王朝 実録 vol.7
・プレディスはソンスを除けば皆 優秀
プルディ王朝 実録 vol.8
・その後 (完)

最初から読みたい方は上のボタンから飛んでくださいね。

プレディス大激動と混乱の時期

2011年、カヒがソロアルバムを出すと同時にアフタースクールの日本デビューが決まり、安室奈美恵のミュージックビデオにベカを除いた全員が出演する。

ハン・ソンス代表は長年の夢であるグローバルアイドル初の試みに再び神がかったマスコミ宣伝を繰り返しながら様々な報道資料を次々と出した。

そして、アフタースクールが日本での立場を固めながら活動する間にプレディスは一つの告知を出す。

男子オーディション。

つまり、プレディスボーイズを選抜するオーディションの告知だ。

それと共にオーディション映像等でアフタースクールボーイズという名称を使用し、地道にメディアに露出させてきた少年たちをハッピープレディス2枚目のアルバムを通じて正式に公開する。

メディアに顔を知られるようになったアフタースクールボーイズは、皆がよく知っている

NU ESTABLISH STYLE TEMPO

NU’EST という名前でデビューすることになった。

年末になってアフタースクールボーイズがマスコミに顔を知らせても尚、プレディスのキャスティングは止まらなかった。

アメリカロサンゼルスで開かれたグローバルオーディションにおいて堂々1位を獲得し、後にNU’ESTの長兄としてデビューすることになるクァク・アロン。

当時19歳だった彼は、アメリカのSAT試験 (日本のセンター試験に相当) で上位0.5%に入り、ニューヨーク大学ジャーナリズム学科に首席で入学する予定だったが舞台に立つため言葉も通じない韓国に来る。

※アロンのキャスティング秘話について意見が分かれ叙述が合わなかったため直接インタビューを抜粋した。オーディション時期が2009年となっているが、本人自ら「19歳で入社した」と言ったことからオーディションを受けた時期と入社時期がズレたものと思われる。

このアロンの合流でNU’ESTのドラゴンボールは全て集まり、ようやくテーマパークで認証ショットを撮ることができた。

イ・ジフンがプレディスに入社して間もなく、チャン・ドユンも入社した。

彼は長い期間プレディスから注目されていた有望株だったが、とある理由から退社し現在は本人の道を歩いている。

2011年、プレディスボーイズおよびアフタースクールボーイズと呼ばれていた男子練習生は、翌年3月にデビューが決まったNU’ESTとは別に、もう一つの双子グループとしても一緒に企画されていた。

ある理由でデビューが中止になったグループ、テンペストの元メンバーがプレディスボーイズの前身である。

※創刊号以降まったく発売されていない悲運の雑誌『プレディスボーイズ』にて確認。

プレディスボーイズには多くの変化が訪れていた時期であったが、そのような中でもキャスティングチームは堅実に練習生を集め続けていた。

音楽に合わせてテコンドーをしてダンスも上手く、中学生の時にはダンスサークルを作り大会に出ては1位を獲る。

そうして出かけた大会でプレディスと出会い名刺をもらったクォン・スニョンは、後にアイドルグループSEVENTEENのパフォーマンスチームリーダーを務めることになる。

そしてその同じ時期、安養にある中学校で掃除をするのが嫌で逃げていた少年は「顔だけ見せにきて」と言いながら名刺をくれたインチキくさいキャスティング担当者に声をかけられソウルに来た。

しかし、顔だけ見せるという言葉とは別に急遽用意されたオーディションを受けることになる。

その際、サンダルを履いて手を叩きながら愛国歌を歌い合格したのが、後にSEVENTEENのラップと高身長を担当するキム・ミンギュ (当時15歳) だ。

後日「なぜ選ばれたのか?」という彼の疑問に、ハン・ソンス代表は「うちの会社もハンサムな子が入ってくる時期になった」と答えている。

※実際はミンギュがサンダルを履いてオーディションを受けたのではなく、一緒に行った友人がサンダルを履いて来たとのこと。本人はオーディションを受ける前に新しい服と新しい靴を買って行ったと自ら明かしている。

また、八龍中学校のダンシング・マシーンとしてオーディションに合格し、後にSEVENTEENの招福となるチョン・ウォヌと、合格者リストに名前を載せたプリスティンのレナ、カン・イェビンの入社までが2011年度プレディスファミリーの全容である。

2011年のプレディスは、アフタースクールの日本活動とプレディスボーイズのデビューを控えて毎日忙しく過ごしていた。

まったく予測できなかったコンセプトの重複で双子グループのデビューという長年の企画を実現できず、この過程でデビュー組に入り指折り数えながらデビューの時期を待っていた何人かの練習生は、一瞬で崩れた機会の前にプレディスを離れたりもした。

そのように練習生たちの入社と退社が繰り返され、年が変わって2012年になるとプレディスはボーイズグループのローンチに力を注ぐ。

そして、その一方で女子の練習生も意欲的にデビューさせ始めた。

イ・ガウンがアフタースクールに新たに加入した後、俳優専門の所属会社ファンタジオとの合弁でハロービーナスというグループをローンチする。

プレディスが多方面に手を伸ばし力を尽くす中、神の一手と呼ばれていた名声にふさわしく、あらゆる報道資料と宣伝を繰り返しながらマスコミに露出させ予告していたアフタースクールボーイズ、正式名称NU’ESTが2012年3月にデビューすることになった。

デビュー曲のFACEは、沸き上がるjackpotという歌詞と中毒性のあるリフレイン、そして独特なコンセプトと社会を反映したような音楽で注目を浴び、スーパールーキーと呼ばれるほど国内外で良い反応を得る。

2012年の熾烈な歌謡界の戦いで新人賞を受賞することはできなかったが、デビュー初年度を良い流れで過ごした。

同年9月、オレンジキャラメルは正規1集LIPSTICKを発表し、再びしっかりとしたユニットの立場を固める。

2011年、2012年とプレディスは2つの新グループ (ハロービーナス、NU’EST) を管理するようになったが、突然崩れたデビュー計画のせいで双子グループのプランを大幅に変更しなければならず、再び新しい男子グループのために練習生を集めはじめた。

同年初め、後にアイドル界の顔天才という一つの新造語を手に入れた14歳の王子様を地下鉄で拾うことになる。

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