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私には私だけの世界がある /イ・スマン物語 vol.9【SME】

SM entertainment

こちらはイ・スマン物語の第9話です。

最初から読みたい方は以下のボタンからタブを開いて飛んでください。

イ・スマン物語 vol.1
・韓流からK-POPまで、その起源と出発
イ・スマン物語 vol.2
・イ・スマンの略史
イ・スマン物語 vol.3
・SM初のダンス歌手
イ・スマン物語 vol.4
・イ・スマンの肉声
イ・スマン物語 vol.5
・アイドルグループの時代を切り開く
イ・スマン物語 vol.6
・救世主BoAの登場
イ・スマン物語 vol.7
・K-POPとイ・スマン時代の明暗
イ・スマン物語 vol.8
・経営スタイルの違い
イ・スマン物語 vol.9 (←現在ココ)
・いわゆるイ・スマンスタイル

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いわゆるイ・スマンスタイル

イ・スマンはその時代に合わせて、できる限りの最善を尽くしていた。

美徳に満ち溢れた人生でもあるが、彼は何よりも変化に敏感な人物だった。

米国留学時代にイ・スマンの才能を呼び起こしたのはMTVだ。

彼はMTVを通して音楽の未来を読み取り、音楽産業がどのように変化するのかを考えた。

誰かにとってはただの娯楽だったMTVが、彼には勉強であり、教科書だった。

そして、イ・スマンはトレンドをよく読んだ。

トレンドの読み取りは、その全てが情報に対する分析からくる。

スポーツ新聞ではなく総合誌を精読するような当時としては非常に珍しい例外的な企画者だった。

称賛を通して内部の結束力とアイデアを引き出し、職員と一緒にした数多くのブレインストーミング (同じ目的のために複数人が自由に意見交換をする会議方法) も芸能企画会社ではおそらく初めて試みられただろう。

彼は良い意見を称賛し、常に邁進できるよう支援する。

ヒョン・ジニョンが最初に大麻で失墜した時、彼に再起の力を吹き込んだのはイ・スマンの関心と称賛だ。

イ・スマンは経営を理解する人物であり、挑戦をためらわず失敗を恐れない人物だった。

苦労して取った学位と資格を捨ててまで、先進国でもなく見て学べる風土でもない不毛の芸能産業に挑戦した。

「すべては第一歩だったし、試行錯誤も経験した。しかし、萎縮することはあっても恐れはしなかった。誰もコンピュータ音楽に関心がない時にCPUというバンドを作って大衆の情緒に挑戦した」

皆が憂慮したが、彼は失敗を恐れなかった。

失敗を嫌う意地もあった。

企画が外れて奈落に落ちても彼は次のチャンスを狙った。

彼の人生の中で最も多く登場する単語を探してみれば、おそらく臥薪嘗胆 (心に決めた目的のために苦労に耐えながら努力すること) と切歯腐心 (歯ぎしりをするほど悔しがること) の2つだろう。

苦労して育てたヒョン・ジニョンが失墜した時も、S.E.Sが日本進出で思わしくない結果を得た時も、彼は失敗を認め、それを繰り返さなかった。

そして何といってもイ・スマンに見られる最大の美徳は、事業家としての野望と動物的感覚だ。

彼は芸能産業でコスダック市場の登録記録を樹立した最初の人物である。

当時、この業種でコスダック入りを夢見た人は彼が唯一だった。

彼の野望は今現在も依然としてうごめいている。

2012年、忠清南道で開催した韓国文化産業フォーラム『エネルギーと文化コンテンツ融合のための地域発展戦略大討論会』で聞いたイ・スマンの基調演説は、彼の夢と野望がどれほど激しく熾烈なのかを示していた。

「未来には誰もが2つの市民権を持って生まれます。一つはアナログ的な出生国の市民権、もう一つはバーチャルネイションという仮想国家の市民権です。バーチャルネイションの中で一番先に思い浮かぶのがSM TOWNです。昨年、パリで行った公演も、そこに住むSM TOWNの国民を癒すためのものでした。アフリカや南米、アラブにもSM TOWNの国民が住んでいます。韓国は5,000万人ではなく、数十億の人口を持つ大国になる可能性があります」

胸を躍らせる発言だった。

企業家名簿に芸能産業従事者として彼の名前を載せれば、きっと最初で唯一の『偉大な文化産業韓国人』となるだろう。

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