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私には私だけの世界がある /イ・スマン物語 vol.5【SME】

SM entertainment

こちらはイ・スマン物語の第5話です。

最初から読みたい方は以下のボタンからタブを開いて飛んでください。

イ・スマン物語 vol.1
・韓流からK-POPまで、その起源と出発
イ・スマン物語 vol.2
・イ・スマンの略史
イ・スマン物語 vol.3
・SM初のダンス歌手
イ・スマン物語 vol.4
・イ・スマンの肉声
イ・スマン物語 vol.5 (←現在ココ)
・アイドルグループの時代を切り開く
イ・スマン物語 vol.6
・救世主BoAの登場
イ・スマン物語 vol.7
・K-POPとイ・スマン時代の明暗
イ・スマン物語 vol.8
・経営スタイルの違い
イ・スマン物語 vol.9
・いわゆるイ・スマンスタイル

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アイドルグループの時代を切り開く

ヒョン・ジニョンのモデルがボビー・ブラウンだったとすれば、H.O.Tのベンチマーキング対象はニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックだった。

ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックは、モーリス・スターという米国アイドルグループの創始者が作り出した企画商品で、綺麗な白人少年たちが歌う黒人情緒のある音楽はあっという間に米国を占領した。

1995年、東亜日報に掲載された記事は、イ・スマンに確信を与えた。

それは、購買決定権を有する米国の青少年たちが支払う金額が、1年間で96兆ウォンという内容だった。

イ・スマンは子供たちがどんな音楽が好きなのか、どの年齢層の歌手が歌を歌えば呼応が高いのか、どのように消費者である子供たちに近づくことが出来るのかを考えた。

そして、世論調査機関にアンケートを依頼して出てきた公式が『高校生グループ+ダンス+歌=新しい変化』であり、その結果がH.O.Tだったのである。

デビュー当時のH.O.Tメンバーは、高校1年生から高校3年生まで全員が現役の学生だった。

イ・スマンは授業後を終えてやってきた彼らに、毎日夜遅くまで苛酷な練習をさせた。

そして、8ヵ月に渡る地獄の訓練を終わらせた彼らはデビューアルバムを発売する。

アルバムタイトルは『We hate all kinds of violence (我々はすべての暴力を否定する)

表紙には膝を抱え、足の間に頭を埋めている少年の姿が印刷されている。

校内暴力に対抗するヒップホップ戦士たちというコンセプトを持ったH.O.Tは10代の青少年を熱狂させ、その青少年たちはソテジに継ぐ新しい代弁者として喜んでH.O.Tを受け入れた。

『戦士の末裔』から『CANDY』まで、盗作疑惑に巻き込まれても、すでに巨体なファンダムを形成していた青少年たちがH.O.Tの心強い盾となったのだ。

そしてイ・スマンはメンバーの個性を生かして、5人をそれぞれ違う形でポジショニングする。

ムン・ヒジュンはユーモア、カンタはハンサム、チャン・ウヒョクはタフ、イ・ジェウォンはシャイ、トニー・アンはムードメーカーというように、幅広い性向を持つファンが好みに合わせて選べるよう多角化戦略を駆使した。

この戦略は音楽市場で大成功を納め、後続の少女時代にもそのまま応用された。

そして、人気絶頂期を謳歌していたH.O.Tのメンバーたちは順番に高校を卒業する。

イ・スマンは1997年2月、H.O.Tの暫定的な活動中断を発表し、GOODBYEステージという方法で休止期を入れた。

これはソ・テジが駆使していた戦略で、アルバム発売と活動開始~休止期~後続アルバム発売と、活動再開を断続的に駆使する典型的な循環マーケティング技法である。

活動休止後、H.O.Tは3ヵ月の沈黙を破ってセカンドアルバム『Wolf and Sheep』を発売する。

このアルバムは10日間で100万枚の販売量を記録し、1997年の秋にはH.O.Tファンクラブ第1期創立式がオリンピック体操競技場で開催された。

創立式は10代の少女1万5千人が集まった華やかで巨大なイベントだった。

ファンダムを組織的に管理するもう一つのマーケティング手法が本格的に稼動したのもこの時である。

ニューキッズ・オン・ザ・ブロックの来韓公演当時、高校生1人が圧死したのと同じ空間で行われたイベントだったため、マスコミは事故が起きることを予想していたが、1万5千人の少女たちは秩序整然と行事を進行した。

これもまた、イ・スマンが狙ったファンクラブの新しい形態であり、H.O.Tは社会現象となった。

ボーイズグループで市場を打ったイ・スマンの次のプロジェクトはガールズグループだ。

以前にもガールズグループはいくつか存在した。

しかし、大衆の目の保養だけに留まって消えてしまうのが、それまで登場したガールズグループの行く末で、ファンの羨望の的になるには体力も準備も足りないものだった。

1996年、初めてガールズグループを思い浮かべたイ・スマンは、ベンチマーキングの対象として米国の3人組グループ『TLC』を選択する。

TLCは3人のメンバーの名前、T-Boz、Left Eye、Chilliのイニシャルを取って名付けられたグループだ。

イ・スマンはその形態はもちろん、彼らが駆使した音楽も集中して研究した。

ニュージースウィングと呼ばれる黒人音楽のジャンルである。

H.O.Tの時より一段階アップグレードした部分は、プロジェクト開始からアジア市場を狙ったという点だ。

韓国語担当のチェ・ソンヒと英語担当のキム・ユジン、日本語担当のユ・スヨンは数千人のライバルを勝ち抜いて選抜された。

イ・スマンは中国語を担当するメンバーまで確保したが、様々な事情で途中下車したため、その夢は次回に持ち越さなければならなかった。

彼はH.O.Tのメンバーたちにそうだったように、ガールズグループのメンバーにも新しい芸名をつける。

チェ・ソンヒはパダ、ユ・スヨンはシュー、キム・ユジンはユジンとなり、そのイニシャルを取った『S.E.S』をグループ名にした。

3人は朝10時から夜7時まで練習を繰り返したが、その訓練強度は非常に高く、ボーカルトレーナーは床に横たわった3人の女子高生の腹の上に人を乗せてボーカルトレーニングをさせた。

喉ではなく、腹で歌を歌わせるためだ。

そして1997年、S.E.SはSBSの音楽番組を通じて大衆に初披露される。

彼女たちのデビューアルバムは1週間で16万枚が販売された。

当時はIMFで経済が真冬のように凍っていた時代だ。

決して少ない販売量ではない。

1998年、ガールズグループ結成時から念頭に置いていた日本市場へ進出するために、イ・スマンはS.E.Sと共に日本行きの飛行機に乗り込んだ。

かつて日本の音楽評論家は「韓国の歌手は演歌を歌わなければ日本でアルバムを発売できないというのが音楽業界の常識」と断言したことがある。

だが、S.E.Sは演歌歌手ではない。

S.E.Sの日本市場への進出は、その常識に挑戦するのと同じだった。

ソニーのオーディション担当プロデューサーは、ボーカルとヒップホップが優れていたS.E.Sを気に入ってくれたが契約は成立しなかった。

ソニーは7年の契約を提示したが、イ・スマンとS.E.Sの希望契約期間が5年だったからだ。

代わりにイ・スマンが契約を締結した業者はスカイプランニング。

条件は40ヶ月で2500万円だ。

S.E.Sの日本活動は活発に行われたが、思ったほど成果を上げることはできなかった。

その最大の理由はS.E.Sのコンセプトにある。

国内では神秘的な妖精のイメージで活動していたが、日本ではそれを作り出すことができず、ただそのようなことをするグループの1つとして埋もれてしまったのだ。

イ・スマンにはもう少し研究する時間が必要だった。

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