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私には私だけの世界がある /イ・スマン物語 vol.8【SME】

SM entertainment

こちらはイ・スマン物語の第8話です。

最初から読みたい方は以下のボタンからタブを開いて飛んでくださいね。

イ・スマン物語 vol.1
・韓流からK-POPまで、その起源と出発
イ・スマン物語 vol.2
・イ・スマンの略史
イ・スマン物語 vol.3
・SM初のダンス歌手
イ・スマン物語 vol.4
・イ・スマンの肉声
イ・スマン物語 vol.5
・アイドルグループの時代を切り開く
イ・スマン物語 vol.6
・救世主BoAの登場
イ・スマン物語 vol.7
・K-POPとイ・スマン時代の明暗
イ・スマン物語 vol.8 (←現在ココ)
・経営スタイルの違い
イ・スマン物語 vol.9
・いわゆるイ・スマンスタイル

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経営スタイルの違い

経営スタイルで3大企画会社を比較するのは非常に興味深いことだ。

ホトトギスを使った俳句で有名な織田信長と豊臣秀吉、徳川家康の3人を例に例えると3大企画会社の首長であるイ・スマン、パク・ジニョン、ヤン・ヒョンソクにも当てはまる。

織田信長は『鳴かないホトトギスならば殺してしまえ』と言った。

これはイ・スマンのスタイルだ。

言われた通り、提示した通りについてくる歌手を作り、スタイル以外の音楽を主張すると簡単に切ってしまう。

彼は契約が満了した歌手たちと親しくもしない。

豊臣秀吉は『ホトトギスが鳴かないなら言い聞かせて鳴かせるべきだ』と言った。

パク・ジニョンのスタイルがこれだ。

JYP所属の歌手たちが会社を離れる時に言う言葉がある。

「自分だけの音楽がしたい」

RAINがそうだったし、G.O.Dのキム・テウもそうだった。

パク・ジニョンは所属歌手の個人的なスタイルを決して認めない。

JYPにはJYPスタイルがあるだけで、彼は自分の方向についてくるよう言いくるめる。

表現は優しいが、実際は冷たくならざるを得ない。

そのような意味で、イ・スマンとパク・ジニョンは同じ脈絡の上にいるのだ。

徳川家康は『ホトトギスが鳴くまで待つ』と言った。

完全にヤン・ヒョンソクのスタイルだ。

彼は人材は発掘するが、所属歌手が才能と個性を思う存分表現できるように配慮する。

いわゆる自由な音楽スタイルを尊重し、彼らが望むことを表現するまで完熟できるよう見守っているという意味だ。

3大企画会社が掲げた自分たちの音楽領土に対する名称を見れば、この違いは明確だろう。

SMは『TOWN』、JYPは『NATION』、YGは『FAMILY』だ。

彼らの経営スタイルとその名称は、ほぼ一致している。

しかし、3つの企画会社を同一線上に置いて比較するのは合理的な発想ではない。

イ・スマンは第1世代と見なければならず、残りの2人はイ・スマンを見ながら学んだ第2世代だからだ。

イ・スマンがいなかったら残りの2人もいないという話は大げさだが、一部は妥当でもある。

先発走者がいなければ、2人は同じミスを繰り返したはずだからだ。

イ・スマンの歌手に対する経営スタイルがこのように固まったのは、言うまでもなく大麻事件で失墜したヒョン・ジニョンに対するトラウマのせいだ。

しかし、その根底には自身が音楽活動をした時期に先生を迎えてその指導に従い、経済的な部分を十分に学べなかったことも作用しているだろう。

彼の経営スタイルは当初は安定的だったが、結局、歌手との紛争という問題を引き起こした。

経営は一方的に押さえつけてしまえば大きく開花しない。

韓流の基盤を作ったのは確かにイ・スマンだったが、彼の『家父長的リーダーシップ』はその有効期間が過ぎてしまっていた。

SMとイ・スマンをベンチマーキングした事実を隠さないJYPは、巨大化するにつれ柔軟性を失ったSMを見て、その盲点を補完した。

しかし、その補完はシステムのほんの一部の改善にしか過ぎず、いわゆる『人の経営』にまでは至っていない。

張り合いと多少の緩さがイ・スマンとパク・ジニョンの差だ。

3つのシステムの内、どれが優れているとは言い切れないが、重要なのはそのシステムの比率をどのように組み合わせるかである。

例えば、YGシステム50%+JYPシステム30%+SMシステム20%といった具合に。

ただし、この比率は時代と状況によって変化することがあり、戦略によっても修正される。

YGスタイルだからといって所属歌手に100%自由を与えるのは配慮ではなく、ただの放棄と無責任だ。

会社には開発する領域があり、トレーニングをさせなければならない部分が必ずある。

自律と強制は組み合わせが上手くいってこそ初めて美しく出るからだ。

イ・スマンの成功の裏には陰があった。

憎みながら学ぶスタイルは彼が音楽をしていた若い頃の定石だった。

高圧的な企画会社中心の考え方も一部体に残っていただろう。

1枚のアルバムが販売される毎にH.O.Tのメンバーが受けていたという収益配分も人々に衝撃を与えた。

未開拓地に向かって一人で走らなければならなかったイ・スマンにとって、収益配分の基準はあまりなかったのだろう。

人間は全てを上手くやることはできない。

その名のとおり、現在のイ・スマンは経営から手を引いた状態であり、SMは専門経営人体制にシステムを変えた。

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