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私には私だけの世界がある /イ・スマン物語 vol.2【SME】

SM entertainment

こちらはイ・スマン物語の第2話です。

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イ・スマン物語 vol.1
・韓流からK-POPまで、その起源と出発
イ・スマン物語 vol.2 (←現在ココ)
・イ・スマンの略史
イ・スマン物語 vol.3
・SM初のダンス歌手
イ・スマン物語 vol.4
・イ・スマンの肉声
イ・スマン物語 vol.5
・アイドルグループの時代を切り開く
イ・スマン物語 vol.6
・救世主BoAの登場
イ・スマン物語 vol.7
・K-POPとイ・スマン時代の明暗
イ・スマン物語 vol.8
・経営スタイルの違い
イ・スマン物語 vol.9
・いわゆるイ・スマンスタイル

イ・スマンの略史

朝鮮戦争の真っ只中、釜山に避難してきた若い夫婦がいた。

夫の名前はイ・ヒジェ、妻の名前はキム・ギョンヒョン。

イ・ヒジェは江原道で漢学を教えてきた学識ある家柄の子息で、延世大学の前身となった延禧 (ヨンヒ) 専門学校で数学物理科に通っていた。

戦前の彼の職業は教師である。

キム・ギョンヒョンもまた梨花女子大学の前身、梨花女子専門学校出身で声楽とピアノを専攻した才女である。

釜山に避難する前、この夫婦には2人の息子がいた。

朝鮮戦争が勃発してから約2年、夫婦の間に第3子が生まれ、他の子どもたちより少し小柄だったその男の子が、後に大韓民国の音楽産業界を牛耳るイ・スマン、その人である。

休戦協定が締結された1953年、5人の家族は京釜線列車に乗ってソウル入りした。

彼らが新しく家を構えた場所は仁王山の麓に位置する付岩洞 (現・鐘路区)

ここで育ったイ・スマンは青雲国民学校に入学する。

当時、とてもおとなしく内向的な性格だった彼は、全校合わせて5本の指に入るほどの成績で小学校を卒業し、名門中学の景福宮中学校に入学した。

この頃は中学入試があった時代である。

京畿高校やソウル高校と同様に、景福宮中学に入学すればソウル大学で終えるといった典型的なエリートコースだ。

クラシックを専攻していた母親のおかげで音楽的素養が身についていたイ・スマンを大衆音楽の世界に導いたのは、彼の兄イ・スヨンである。

イ・スマンは兄に教えてもらったビートルズをルーツにレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなど、その音楽領域を広範囲に拡張していく。

航空大学に進学した兄は入学と同時に『RUNWAY』というバンドを結成した。

1979年にデビューした伝説のロックバンド『ソンゴルメ』のメンバーとして知られているペ・チョルスは、その『RUNWAY』の6期メンバーだ。

兄が大学でバンドを結成したのを真似するかのように、イ・スマンもまた景福宮高等学校で『FROG』というバンドを作り、チームリーダーを務めた。

これはバンド音楽を少しでも知る人であれば誰もが知っていることだが、リーダーは普通のメンバーとは違い、運営という荷物も同時に背負う存在である。

彼のリーダーとしての役割は個人の領域を超え、頂点に上がろうとする欲望と気質を反映していた。

1969年、クリフ・リチャードの来韓公演が韓国社会を騒がせた。

音楽も音楽だったが、当時高校生だったイ・スマンはクリフ・リチャード現象で音楽以外のものを発見する。

それは、男性ミュージシャンと女性ファンが作り出す緊張感と測定不能の爆発力だった。

外国の歌手が音楽でファンを熱狂させることに対して反発する理由は1つもない。

イ・スマンは音楽とビジネス、そしてファンダム (特定の人物やジャンルを情熱的に好む人々、あるいはその社会現象) が作り出す影響力を探っていた。

1971年、イ・スマンはソウル大学校農科大学農工学科に入学する。

息子が学者になることを望んでいた父親のせいで、彼は父の期待と音楽に対する欲求の狭間で葛藤しながら大学時代を過ごしていた。

イ・スマンの本格的な音楽活動は明洞のYMCAホールから始まっている。

彼は当時、音楽パートナーのペク・スンジンと共にフォークグループ『4月と5月』を結成して舞台に立ち、デビューアルバムはラジオDJだったイ・ジョンファンの助けを借りて世に送り出した。

その時代、アルバムを出すためには20万ウォン程かかったが、1人当たりの国民所得が10万ウォンにも満たなかった時代である。

ただアルバムを出すだけでも赤字だった。

大学生のフォーク歌手はアマチュアでも商業歌手でもない中途半端な立場であり、当然、まともな契約書があるはずもなく、彼らが生み出した僅かな収益はマネージャーを務めていたイ・ジョンファンが適当に配分した。

そして1974年、イ・スマンはラジオ放送局に進出する。

コメディアンのパク・ソンウォンが進行を務めていた『ビバポップス』というラジオ番組の後続MCになったのだ。

ラジオDJとしてイ・スマンの才能が輝いた時代である。

彼の話術と番組進行能力は、そのままテレビにつながった。

1977年には第1回大学歌謡祭の司会を務め、彼は機転の利いた進行で大衆に強い印象を残した。

1980年、イ・スマンには実家同然だった放送局のTBCが軍による言論統廃合措置で閉鎖され、これをきっかけに彼は米国留学を決心する。

芸能生活10年の決算は彼に自意半分他意半分として迫り、彼はカリフォルニア州立大学に留学生として入学した。

しかし、コンピュータ工学科の学生として人生の方向性を定めたものの、一度足を踏み入れた音楽から簡単に抜け出すことはできなかった。

1981年、ケーブルテレビの形で開局したMTVに彼は大きな衝撃を受ける。

米国では聞く音楽から見る音楽へと大衆音楽が変化していたからだ。

MTVの文化的洗礼を受けたイ・スマンは、ミュージックビデオ製作という新たな領域に関心を持つようになった。

韓国で「芸能界には戻らない」というインタビューまでしてきた彼の心に変化が生じ、イ・スマンは再び作曲に手を出した。

24時間、音楽の波が押し寄せるMTVは1人の青年の人生を劇的に変えたのだ。

音楽的な所得がMTVだったとすれば、個人的な所得は人生のパートナーとなるキム・ウンジンという女性に出会ったことだろう。

デザインを専攻していたキム・ウンジンはイ・スマンとは9歳差だったが、文化というカテゴリを共有していたおかげで2人の間に壁はなかった。

1984年、イ・スマンとキム・ウンジンはロサンゼルストーランス監理教会の牧師の前で腕を組んで並んだ。

その後も彼は米国でMTVを研究し続け、ついに新しい事実を知る。

視聴者がMTVを見る最大の理由が『スターのファッションを見るため』というアンケート調査の結果は、イ・スマンに新しい認識の扉を開かせた。

ファッションに続き、『歌手の律動を見るため』が2番目で『歌を聞くため』が3番目である。

イ・スマンの事業的な『勘』はこの時から鋭く発揮され始めた。

クリフ・リチャードの公演でも音楽以外の面をじっくり観察し、先を読んだ慧眼ではないか。

彼はMTVが韓国に上陸することを知り、それが大衆音楽の構図を変えるという事実を見抜いていた。

両親の期待は相変わらずイ・スマンの足を引っ張っていたが、もう迷いはない。

彼はコンピュータ工学修士として受けられるはずだった初任給3万ドルを捨て、大学講師の職を断った。

再び音楽に戻った彼は、大学で学んだコンピュータ工学と音楽を融合すれば、アナログ方式とは違う画期的な変化をもたらすと信じていた。

そして、イ・スマンは韓国に帰国する。

彼は帰国後のインタビューで「見るものがあり聞くものもある歌手としてファンに披露する」と、非常に象徴的な言葉で芸能界引退をひるがえした。

彼の芸能界復帰はKBSラジオの『若者の歌』で行われ、以後、同じ放送局の『芸能街中継』のメインMCとして再び大衆と会った。

一方で音楽作業は慎重に進められたが、彼の企画と大衆の好みの間には大きな隔たりがあり、ホン・ジョンファ、クァク・ヨンジュンと作ったプロジェクトバンド『CPU』は大衆からそっぽを向かれてしまう。

留学生時代からの夢だったコンピュータを利用した音楽は、まだその時期が来ていなかったのだ。

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