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私には私だけの世界がある /イ・スマン物語 vol.3【SME】

SM entertainment

こちらはイ・スマン物語の第3話です。

最初から読みたい方は以下のボタンからタブを開いて飛んでくださいね。

イ・スマン物語 vol.1
・韓流からK-POPまで、その起源と出発
イ・スマン物語 vol.2
・イ・スマンの略史
イ・スマン物語 vol.3 (←現在ココ)
・SM初のダンス歌手
イ・スマン物語 vol.4
・イ・スマンの肉声
イ・スマン物語 vol.5
・アイドルグループの時代を切り開く
イ・スマン物語 vol.6
・救世主BoAの登場
イ・スマン物語 vol.7
・K-POPとイ・スマン時代の明暗
イ・スマン物語 vol.8
・経営スタイルの違い
イ・スマン物語 vol.9
・いわゆるイ・スマンスタイル

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SM初のダンス歌手

1984年9月、MTVの授賞式でのハイライトはマドンナが飾った。

2年の時差を置いて韓国ではキム・ワンソンがデビューする。

その時17歳だったキム・ワンソンは、イ・ムンセのバラードと共に歌謡界を二分した。

鍛えられた体とハイレベルなダンスであっという間に歌謡界の一面を掌握したキム・ワンソンを育てたのは、彼女の叔母ハン・ベクヒだった。

キム・ワンソンは歌手イン・スニに続く2番目の作品だったが、叔母のハン・ベクヒはキム・ワンソンの存在を隠し、3年をかけて厳しくトレーニングさせた。

歌手を発掘して寝食まで提供し、師弟式の訓練方法で育てるのは日本だけで使われていた手法だ。

イ・スマンは、キム・ワンソンのデビュー過程に注目した。

彼の頭の中で今後推進していく90年代のアイドルプロジェクトに対する下絵が具体化され、普段から親交のあったクラブDJのチェ・ジンヨルに連絡をする。

SM初のマネージャーになったチェ・ジンヨルに、当時のイ・スマンはこのような提案をしている。

「以前のようにどんぶり勘定式にやっていた音楽の時代は終わった。私は専門的なプロダクションシステムを導入する予定だ。会社を設立してアルバム企画と製作を全てしようと思う。そのように作った歌を放送局に紹介することも、そしてファンを管理することも。これからは体系的に分業化して処理しなければならない。複数のチームの歌手を同時に会社に置いて仕事をするにはその方法しかないだろう。そのためにはその仕事を専門的に担当してくれる人材が必要だ」

チェ・ジンヨルはイ・スマンの提案を受け入れた。

人気絶頂のDJとして羨ましい内容は一つもなかったが、彼にも野望というものがあった。

チェ・ジンヨルの合流は、彼の周りにいた青少年ダンサーの合流を意味している。

ホ・ヒョンソク、イ・ジュノ、ヤン・ヒョンソクだ。

イ・スマンはその中からホ・ヒョンソクを『第2のキム・ワンソン』にすることを決めた。

追求するのは米国のポップスター、ボビー・ブラウン。

漢南洞に住んでいたホ・ヒョンソクは、面子遊びのような子どもの遊びはせずに、ラップやブレイクダンスに熱中する独特な成長期を送っていた。

イ・スマンがホ・ヒョンソクを指名した時、彼の年齢は17歳。

イ・スマンはホ・ヒョンソクに『ヒョン・ジニョン』という芸名をつけ、2人のバックダンサーをつけた。

1990年の夏、ソウルフルな歌唱力とラップ、そして難易度の高いダンスで『ヒョン・ジニョンとワワ』が初めてテレビ画面に登場する。

手にはマイクを持たせず、耳にかけて口の前につながる無線マイクを使用した。

両手が自由になったヒョン・ジニョンはダイナミックなダンスでステージを飾り、デビューと同時にトップに立った。

しかし、彼は人気絶頂期に大麻喫煙の疑いで墜落する。

自粛期間を経た後にカムバックしたが、再び起こした大麻喫煙がイ・スマンの足を引っ張った。

このヒョン・ジニョン事件は会社に経済的な負担を与え、歌手に対する世論の不信にも繋がった。

経営面では、実業家と会社の業績を3対7程度の割合で配分することが最善とされている。

しかし、イ・スマンの場合、自身の功績と事業的な成功を分離することは現実的に不可能だった。

だが、このイ・スマンの旅路は韓国における音楽産業の発展を探るには必要不可欠だ。

なぜなら、イ・スマンがヒョン・ジニョンの浮き沈みを経験して、2つの事業方向を見い出すきっかけにもなったからだ。

ひとつはコンピュータ音楽がいつかは一般的になるということ、そしてもうひとつは、海外のポップ市場に進出することが韓国音楽の脱出口になるということである。

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